草莽日記

日本について考える

日本国憲法の「3大原則」

日本国憲法をどう学んだか?

 日本国憲法と聞いて、何を考えるでしょうか?

 近年、特定秘密保護法や安保法案が話題となり、憲法問題がメディアで取り上げられていました。ですから、興味を持ち、自ら進んで憲法について学ばれた方もいると思います。しかし、そうでなければ、中学生・高校生のときに習った記憶がある程度かもしれません。その時、必ず教えられるのは、日本国憲法の「3大原則」です。これらの原則が重要であると覚えさせらた記憶が、おそらく多くの人にあると思います。

 私も日本国憲法の「3大原則」を覚えさせられました。確かに覚えましたが、疑問もありました。どうして「これら」が3大原則なのか? 誰が決めたのか? 憲法改正の限界は本当にあるのか? などなどです。

 憲法の問題は様々ですが、今回は、ほとんどの人が一度は学んだであろう日本国憲法の「3大原則」を取りあげたいと思います。

日本国憲法の「3大原則」

 まずは、復習をします。中学生の教科書の記述を見てみましょう。

 

    日本国憲法は、戦前の天皇主権を否定して国民主権の原理を採用し、人権の

   保障をいちじるしく強化しています。また、多くの犠牲を出した戦争と戦前の

   軍国主義の反省にもとづいて、戦争を放棄(憲法第9条)して平和を強く希求

   しています。

    国民主権、平和主義、基本的人権の尊重は、日本国憲法の三つの基本原則で

   す。

                   『新しい社会 公民』(東京書籍、2012年)

 

 また、箇条書き的にまとめます。

  ・第1原則「国民主権

    国の政治を最終的に決定する権力は国民にあるという考え方。

  ・第2原則「基本的人権の尊重」

    人が生まれながらにして持っている権利を保障する。

    侵すことができない永久の権利。

  ・第3原則「平和主義」

    戦争放棄、戦力の不保持、交戦権の否認。

 

 なんとなく、守らなければならない気はしますよね? 少なくとも、この原則を否定するのは難しいと思います。しかし、「単なるお題目に過ぎないのではないか?」という疑問をいだく人もいるでしょう。次章から原則を1つずつ論じていきたいと思います。

第1原則「国民主権

  国民主権を考える前に「主権」について考えたいと思います。主権は、ラテン語の「最高の力」という意味を持つ言葉が大元であり、後にジャン・ボダンによって定義がなされました。ジャン・ボダンは、宗教戦争によって国が混乱している状況を解決するために強い力が必要であると考えました。そこで彼は、国をまとめるために、国王に絶対的な権力を与える「君主主権」を主張しました。しかもそれは、神様が王に与えた力であるため、きちんと統治しない場合は天罰が下されるという考え方が前提としてあります。主権とは、国外に対しては独立、国内に対しては最終決定権を有する力のことでしっかりとした政治をしようという想いの中で誕生した言葉なのです。

 そのような力を国民が保持していること。それが「国民主権」です。そしてこれが民主主義と同義であるとされ、絶対的な善であるというのが日本国憲法の考え方です。しかし問題があります。国民が望むことなら何をしても良いのかということです。例えば、フランス革命のように過激な行動原理はまさに国民主権だったわけですが、急進的に社会を変革するようなことには大きなデメリットが発生します。国民が望むなら、王様の首をちょん切れ!これが国民主権の怖ろしさです。革命を考えている人々は極々少数も少数でしょうが、ほかに卑近な例をあげれば、ポピュリズムによる政治ということでしょう。そのことを念頭に置かねばなりません。国民主権だからと手放しで善いことと考えてはいけないのです。

第2原則「基本的人権の尊重」

 次に「基本的人権の尊重」について述べます。「人権」とは人間が人間であるだけで認められる権利です。もう1つ「国民の権利」とという言葉があります。「人権」と「国民の権利」はどう違うのでしょうか?この違いについてまずは考えたいと思います。

 一言で違いを言えば、「権利を誰が認め、誰が保障してくれるのか」ということでしょう。前述のとおり、「人権」とは人間が人間であるだけで認められる権利ですから、誰かに認められてある権利ではありません。奪われることもありません。強いて言えば、神によって与えられたと表現することは可能かもしれません。誰が保障してくれるのかについては、神に祈るか・自分自身で守るしかないでしょう。間違っても国家が守ってくれるものと思ってはいけないでしょう。そんなものを人権と呼ぶのはおこがましい。一方、「国民の権利」とは国家が与える、あるいは憲法によって国民が国家に約束させた権利ということができます。この権利は我々の「合意」によって決まるものであり、個人が無制限に権利を主張することはできません。

 単純に言えば、「人権」は神の意思、「国民の権利」は国民による合意ということでしょう。日本国憲法においては、もしくは日本における憲法教育では、この2つを混同しています。建前は「人権」、実際は「国民の権利」、教えられるのは「人権」だと思います。そうすると何が問題か?事実上、不可能なのに「人権は絶対で不滅だ」的な思想が跋扈し、思考停止になってしまいます。本来は不断の努力により権利を勝ち取っていく(合意を得る)必要があるのです。結局、国家権力側は「国民の権利」をどんどん制限し、人権屋は「人権は絶対だ!」と叫ぶだけです。私たちは、国民として「国民の権利」を掴み取り、噛みしめ、行使することが求められます。キレイゴトとして「人権」を語るのはいい加減やめるべきでしょう。

第3原則「平和主義」

 最後に「平和主義」です。これに反対する人は、まずいないでしょう。しかし問題はこの問いに尽きると思います。「平和主義」って何?「平和主義」は誰もが反対できないようなお題目に過ぎないのではないか?ということでもあります。そこで「平和主義」の中身について考えたいと思います。

 はっきり言います。戦後日本の議論から考えると「平和主義」の中身についての「合意」はありません。例を挙げます。

 ・自衛隊は軍隊なのか否か?

 ・自衛隊は何をしていいのか?何をしてはいけないのか?

 ・我々はどういう時に、自衛隊に何をどこまで望むか?

 このようにまだまだ議論しきれていない。しかも基本的で重大な議題です。憲法改正にしてもいわゆる護憲にしても、本質的な議論をしようよ。つまり、いつどのような時なら自衛隊は攻撃していいのか?ということです。この議論をしないで「平和主義」を語るのは無意味でしょう。

最後に

 昨今、憲法が話題になっています。しかし、今までと変わらず、本質に触れない議論ばかりです。まずは、日本国憲法の「3大原則」から今一度、考えていく必要があると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何のために、何を書くのか?

自己紹介

高杉晋太郎です。

平成生まれの有権者の1人です。

日々、考えていることを書いていきます。

 

何のために、何を書くのか?

まずは、「自分のため」に書く。書きたいから書く。これは否定のしようがない。

日々の生活の中に思考があり、それを表現したいと思い、書きます。

または、「他者のため」に書く。自分のために書いていることを弁えながらも、

ブログには読者もいます。ただ書くだけなら、公開しなくても良いはずです。

それを敢えて、公開するからには、他者の存在を前提に書く必要があると思います。

他者とは、社会や世界も含む、自分以外の存在です。

 

書く内容については、明確には決めませんが、政治的なものが多くなると思います。

広く社会の問題について書いていきたいと思います。